LOGINコンコン。
扉をノックする音で、目が覚めた。
目に入る天井は真っ白で、見慣れないシーリングライトが視界の端にある。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
――ここは、どこだ。
そうだった。昨日、鷹宮の自宅に連れてこられ、ここで住み込みで働くことになったのだ。契約書にサインをし、この部屋を与えられたまま眠りに落ちた。
身体をゆっくりと起こし、窓に目をやる。カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
部屋の扉が、音もなく開いた。
「おはよう。よく眠れたか」
鷹宮が、部屋の中に入ってきた。
すでにスーツを着ている。ダークグレーのスーツに、白いシャツ。髪は整えられ、顔には疲れの色ひとつない。昨日と同じ、冷静で読めない目をしていた。
「はい……。よく眠れました」
嘘ではなかった。
ネットカフェでの暮らしで、身体は悲鳴を上げていた。狭い空間で身を縮めて眠る日々。物音に怯えて何度も目が覚める夜。それが昨日は、一度も目覚めることなく朝を迎えた。
久しぶりに、ちゃんと眠れた。
「そうか。それはよかった」
鷹宮は部屋の奥へ進み、カーテンを開けた。
眩しい光が、一気に部屋に流れ込んできた。
湊は思わず目を細めた。朝日をこんなに眩しいと感じたのは、いつぶりだろう。ネットカフェには窓がなかった。外の光を浴びることすら、久しく忘れていた。
「シャワーを浴びて、身支度を整えてくれ。朝食は十分後に用意する」
「……わかりました」
鷹宮は、それだけ言うと部屋を出ていった。
湊は、しばらくベッドの上で動けなかった。
起こされた。
時間を決められた。
当たり前のことなのに、妙に胸がざわついた。
――いや、これは普通のことだ。
住み込みで働くのだから、生活のリズムを合わせるのは当然だ。雇用主の指示に従うのは、契約の一部だ。
そう自分に言い聞かせて、ベッドから足を下ろした。
立ち上がると、身体が軽かった。
いつもは節々が痛んで、起き上がるのにも時間がかかった。それが今日は、すっと立てる。ちゃんとしたベッドで眠るだけで、こんなにも違うのか。
伸びをして、脱衣所へ向かった。
扉を開けると、着替えが置いてあった。
畳まれたシャツと、スラックス。シンプルだが、質のよさそうな生地。昨日着せられた服と同じ系統の、落ち着いた色合いだった。
――これを着ろ、ということか。
自分で服を選ぶことは、許されていないらしい。
でも、それは仕方がない。経営者のそばで働くのだから、それなりの身なりを求められるのは当然だ。自分で考える必要がないのは、むしろありがたいことかもしれない。
そう思い込もうとした。
シャワーを浴びながら、ぼんやりと考えた。
朝にシャワーを浴びる習慣など、湊にはなかった。夜に入ることもあれば、入らない日もあった。それが今は、朝から身体を清潔にし、決められた服を着て、決められた時間に食事をする。
生活が、整えられていく。
誰かに。
十分後という時間を意識しながら、急いでシャワーを済ませた。
*
ダイニングに行くと、テーブルの上にはすでに朝食が並べられていた。
色とりどりの野菜サラダに、ふわふわのオムレツ。野菜がたっぷり入ったスープもある。トーストされたバゲットには、こんがりとした焼き色がついていた。グラスにはオレンジジュース。
まるで、ホテルの朝食のようだった。
「座って」
すでに席についていた鷹宮が、湊に席に着くよう促した。
「これ……鷹宮さんが作ったんですか?」
「そうだが。何か問題でも?」
「いえ……すごいな、と思っただけで……」
会社のトップが、自分で朝食を作る。それも、こんなに手の込んだものを。
「大したことじゃない。さあ、食べよう」
鷹宮は背筋を伸ばし、両手を合わせた。小さく「いただきます」と言った。その所作は自然で、美しかった。
湊は慌てて真似をした。手を合わせて、「いただきます」と呟く。
スプーンを手に取り、スープをひとくち含んだ。
野菜の優しい甘みが、口の中に広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。
「……おいしいです」
「口に合ったようでよかった」
鷹宮は黙々と食事をしている。かなりの量があるのに、淀みなく平らげていく。
湊も食べ進めようとしたが、半分ほどで手が止まった。
胃が重い。
ここ数日、まともに食べていなかったせいで、胃が縮んでいるのだろう。これ以上入れたら、戻してしまいそうだった。
フォークを置いた。
「もういいのか」
鷹宮の声に、湊は肩を竦めた。
「もう……お腹いっぱいで……」
味はおいしい。でも、身体が受け付けない。申し訳なさで、顔が熱くなった。
「そうか」
鷹宮は立ち上がり、キッチンへ入っていった。戻ってきたときには、手に小さなケースを持っていた。
「これを飲んで。足りない栄養素を補う」
サプリメントだった。
湊は素直に受け取り、水で流し込んだ。
「しばらくは、少量ずつ食べるようにしよう。胃腸が回復するまでは、僕が食事の量を調整する」
――食事の量を、調整する。
その言葉が、頭の中で反響した。
心配してくれているのだ。きっとそうだ。不摂生な生活をしていたのだから、身体を気遣ってくれているのだろう。
そう思うと、恥ずかしさが込み上げてきた。鷹宮と自分の暮らしが、あまりにも違いすぎる。
でも――今まで、湊の体調を心配してくれる人など、いなかった。
元婚約者でさえ、湊の身体のことなど気にしていなかった。むしろ、無理をさせる側だった。
それなのに、この人は。
口元が、わずかに綻んだ。
「あの……コーヒーをいただけませんか?」
湊はコーヒーが好きだった。特にダークローストの、深い苦みのある豆が好みだった。最近はネットカフェの薄いコーヒーしか飲んでいなかったから、急においしいコーヒーが恋しくなった。
「コーヒーはダメだ」
鷹宮は、即答した。
「君は今、胃腸が弱っている。カフェインは刺激が強すぎる」
「……そうですか」
住み込みで働かせてもらう身なのに、図々しいことを言ってしまった。恥ずかしくて、目を伏せた。
「君の好きそうな豆は揃えてあるから、身体が回復したら飲むといい」
湊は、顔を上げた。
――好きそうな豆?
心臓が、どくりと跳ねた。
コーヒー豆の好みなんて、元婚約者にしか話したことがない。なぜ鷹宮が知っているのだ。いつ調べたのだ。どこまで把握しているのだ。
口を開きかけたが、それより先に鷹宮が立ち上がった。
「今日は会社に行く。十分後に出るから、準備してくれ」
「……はい」
湊は、頷くしかなかった。
聞きたいことがあったのに、聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
*
鷹宮に促されて地下駐車場に降りると、一台の黒塗りの車が待機していた。昨日、湊をこのマンションに連れてきたときと同じ車だ。
「おはようございます」
運転手が、後部座席のドアを開けた。鷹宮がするりと車内に滑り込んだ。
「朝倉くんは、僕の隣に」
促されるまま、鷹宮の横に座った。ドアが閉まる。外の音が遠くなった。
車が、静かに滑り出す。
横目で鷹宮を見ると、タブレット端末で何かを確認している。今日の予定か、会議の資料か。真剣な目つきで画面を見つめている。
今は話しかけない方がいい。
そう判断して、湊は窓の外に目をやった。
車がひしめき合う車道。いつもは歩道から、ただ車が行き交うのを眺めていた。それが今は、こんな高級車の中にいる。
昨日まで路上で追われていた人間が、今日は革張りのシートに座っている。
現実感がなかった。
そんなことをぼんやりと考えていると、車が高層ビルの前に止まった。
運転手がドアを開け、湊は慌てて降りた。
見上げると、ガラス張りのビルが朝日を浴びてきらきらと輝いている。首が痛くなるほど高い。
鷹宮が車を降り、迷いのない足取りでビルへ入っていく。湊も慌てて後を追った。
「社長、おはようございます」
エントランスには受付カウンターがあり、女性が二人並んでいた。鷹宮の姿を見ると、すぐに立ち上がって頭を下げる。
「おはよう」
鷹宮は表情を変えずに挨拶を返し、まっすぐエレベーターホールへ向かった。湊は受付の二人に軽く会釈をして、鷹宮の背中を追いかけた。
視線を感じた。
受付の女性たちが、湊を見ている。誰だろう、という目。社長の連れは何者なのか、という視線。
居心地が悪かった。
場違いだ、と思った。
エレベーターで最上階まで上がると、鷹宮は廊下をまっすぐ奥へ進んでいった。この階には社長室と会議室しかないようで、他に人の気配がない。静まり返った空間に、二人の足音だけが響いた。
「社長室」とプレートのかかった扉を、鷹宮が開けた。
中は、二つの空間に分かれていた。手前に前室のようなスペースがあり、奥にガラス張りの大きな部屋が見える。奥が、鷹宮の執務室だろう。
前室には、一人の男性がいた。
三十代半ばくらいだろうか。オールバックに整えた髪と、銀縁の眼鏡。スーツは鷹宮と同じく高価そうで、隙のない着こなしをしている。
鷹宮が入ってくると、男はすっと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう」
男が鷹宮に歩み寄った。
「社長、ご指示いただいた件については、調整済みです」
「わかった」
鷹宮は短く答えると、湊の方を振り返った。
「ここでの仕事は、三崎に教えてもらってくれ」
それだけ言って、鷹宮はガラス張りの執務室へ入っていった。
残されたのは、湊と――三崎という男だけだった。
「初めまして。社長秘書をしています、三崎悠です」
三崎が、丁寧な口調で名乗った。声は落ち着いていて、感情をあまり表に出さないタイプに見えた。
「あ、朝倉湊です。よろしくお願いします」
三崎は自席から、一枚の紙と小さな箱を持ってきた。
「朝倉さんのお仕事は、この紙に書いてあるとおりです。それから、こちらが名刺です」
湊は、差し出された名刺の箱を受け取った。
開けてみる。
「タカミヤホールディングス 社長室 朝倉湊」
自分の名前が、印刷されていた。
――いつ用意したのだ。
昨日の今日だ。契約したのは、ほんの昨日のことだ。
なのに、名刺がもう用意されている。まるで、湊がここに来ることが、最初から決まっていたかのように。
「……ありがとうございます」
声が震えていないか、自分でもわからなかった。
三崎は、部屋の中を案内してくれた。どこに何があるか、どの棚にどの書類が入っているか。丁寧に、淡々と説明してくれる。
「何かあれば、私に聞いてください。基本的に、朝倉さんはこの部屋から出る仕事はないと思いますので」
――この部屋から出る仕事はない。
その言葉が、妙に引っかかった。
でも、新人なのだから当然か。いきなり外に出る仕事を任されるわけがない。
「わかりました」
湊は頷いて、指定されたデスクに座った。
三崎から手渡された書類に目を通す。そこに書かれているのは、ほとんどが雑務だった。書類整理、データ入力、スケジュール管理の補助。
難しい仕事ではない。
でも、仕事があるというだけで、胸が温かくなった。
ここに、自分の居場所がある。
やるべきことがある。
それだけで、涙が出そうになった。
*
最初に任されたのは、書類の仕分けだった。
社長である鷹宮に見せるもの、秘書室で処理できるもの、他の部署に回すもの。わからないものは三崎に聞きながら、一枚一枚確認して分けていく。
集中していると、時間があっという間に過ぎた。
「社長が目を通す分については、朝倉さんが社長室に持っていってください」
三崎に言われて、湊は書類を胸に抱えた。
ガラス張りの扉をノックする。中から、鷹宮がこちらを見ているのがわかった。
「入れ」
「失礼します」
一礼して、中に足を踏み入れた。
広い執務室だった。大きなデスクの向こうに、窓からの光が差し込んでいる。鷹宮は椅子に座ったまま、湊を見上げた。
「目を通していただく書類です」
デスクの上に、書類を置いた。
鷹宮は、その書類にちらりと目をやった。それから、湊の顔を見た。
「君が仕分けしたのか?」
「……はい」
「仕事を覚えるのが早いな。仕事ぶりもいい」
心臓が、どくりと跳ねた。
褒められた。
「ありがとうございます」
頬に熱が籠るのがわかった。
大したことはしていない。言われた通りに分けただけだ。でも、褒められると嬉しい。
今まで、仕事で褒められたことなんてほとんどなかった。貶されることはあっても、認められることは少なかった。
「君は、こういう仕事に向いているみたいだ」
鷹宮が、目を細めた。
その視線に、どこか熱いものを感じた。見られている。観察されている。昨日からずっと、この人は湊のことを見ている。
――怖い。
でも、嬉しい。
ここが、自分の居場所になるのかもしれない。そう思うと、安堵が胸に広がった。
「引き続き、よろしく」
「はい」
湊は一礼して、社長室を出た。
前室に戻ると、三崎が湊に目をやった。
眼鏡の奥の瞳が、何かを探るような光を帯びていた。口元は笑っていない。湊を見ているようで、その向こうにある何かを見ているような目だった。
何か言いたげに見えたが、三崎は何も言わなかった。
湊も、聞けなかった。
*
その日の仕事を終えて、鷹宮のマンションに戻った。
夕食も、鷹宮が用意してくれた。朝と同じく、胃に優しい献立だった。量は少なめで、消化のいいものばかり。湊の体調を考えて、すべて計算されているのだとわかった。
――管理されている。
その言葉が、また頭をよぎった。
でも、それは心配してくれているからだ。そうに決まっている。
食事を終えて、湊はゲストルームに戻った。
荷物の整理をしようと思った。とはいえ、荷物はリュックサック一つだ。着替えが二組と、空になった財布。そして――。
リュックの底から、小さな箱と写真、それから書類の束を取り出した。
指輪の箱。
二人で撮った写真。
借金の借用書。
指輪の箱を、ぼんやりと見つめた。
「結婚しよう」
元婚約者に言われて、有頂天になった。海外で挙式を挙げようと約束して、彼が好みそうな指輪を選んで、渡す日を夢見ていた。
結局、渡すことは叶わなかった。
本気で好きだった。愛していた。この人以外はいらないと、心から思っていた。
それなのに、彼は詐欺師だった。
写真を見つめた。二人で笑っている。幸せそうに寄り添っている。この笑顔も、全部嘘だったのだろうか。
目頭が、熱くなった。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
返事をする前に扉が開くと、鷹宮が入ってきた。
「荷物の整理か」
鷹宮の視線が、湊の手元に落ちた。指輪の箱と、写真。
眉間に、皺が寄った。
「……それは何だ」
低い声だった。穏やかさの奥に、何か別のものが混じっている。
「えっと……前の……」
「ああ、君を騙した男のものか」
直接的な言い方だった。胸に、鋭いものが刺さる。
鷹宮が、近づいてきた。湊の手から、写真を取り上げる。
「これは、もう不要なものだ」
「……え?」
「捨てろ」
湊は、息を呑んだ。
「捨てる……?」
「君を傷つけた人間の痕跡を、いつまでも持っている必要はない」
正論だった。
正論なのに、従えなかった。
騙されたとわかっている。裏切られたとわかっている。でも、彼との思い出は、確かに湊の中にあったものだ。嘘だったとしても、あの時間は本物だと信じていた。
簡単に捨てられるものではなかった。
「……でも」
「でも?」
鷹宮が、湊を見下ろした。
冷たい目だった。感情が読めない、いつもの目。でも、その奥に何かが燃えているように見えた。
「君の過去も、僕は把握しておきたいと思っている」
把握。
また、その言葉だ。
「君がどんな人間に傷つけられたのか。どんな経験をしてきたのか。全部、知っておきたい」
鷹宮の声は、低く静かだった。優しいようで、有無を言わせない響きがあった。
「それは……」
「君の過去に触れたものは、すべて僕が把握する。それが、君を守るということだ」
守る。
その言葉に、反論できなかった。
鷹宮は、写真を手に持ったまま、湊を見つめていた。
「これは、僕が預かる。捨てるかどうかは、また考えよう」
湊は、何も言えなかった。
指輪の箱も、写真も、鷹宮の手に渡っていく。自分の過去が、少しずつ誰かのものになっていく。そんな感覚があった。
「君に必要なのは、過去ではない」
鷹宮が、湊の顎に指をかけた。顔を上げさせられる。逃げられない距離で、目が合った。
「これからの生活だ。僕が用意する、新しい生活」
その声は、優しかった。
優しいのに――どこにも、逃げ場がなかった。
湊は、鷹宮の目を見つめたまま、動けなくなっていた。
助けられている。
守られている。
なのに、胸の奥がざわついて止まらなかった。
鷹宮のマンションで暮らし始めて、初めての週末が訪れた。 会社は休みのはずだが、鷹宮は朝、いつもと同じ時間に湊の部屋をノックした。「おはよう。朝食は十分後だ」 それだけ告げると、部屋を出ていく。 平日と同じだ。起こされる時間も、シャワーを浴びるまでの流れも、すべて同じ。休日だからといって、何かが変わるわけではないらしい。 湊はベッドから起き上がり、脱衣所に向かった。 そこには、いつものように着替えが用意されていた。薄いグレーのニットと、紺のスラックスだ。シンプルだが、質のよさそうな生地だ。 ――休日でも、服は決められているのか。 そう考えたが、すぐに打ち消した。用意してくれているのだから、ありがたいことだ。自分で選ぶ手間が省けて、むしろ楽だ。 シャワーを浴びて、用意されていた服を着て、食卓に向かった。 今日の朝食は、和食だった。 ほかほかの白ごはんが茶碗によそってあり、その横には味噌汁。卵焼きとほうれん草のおひたしが添えられている。 平日は洋食だったのに、週末は和食。鷹宮なりのこだわりがあるのだろう。 湊が席につくと、鷹宮は両手を合わせて「いただきます」と言った。それに倣って、湊も両手を合わせた。 味噌汁を一口含むと、出汁の香りが口いっぱいに広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。「……おいしいです」 自然と言葉が溢れた。大袈裟ではなく、本当に身体の芯まで染み渡るような味だった。「そうか。口に合ったようでよかった」 鷹宮は口の端をわずかに上げた。表情の変化は乏しいが、喜んでいるように見える。ここ数日、一緒に生活してきて分かったことだ。「鷹宮さんは、和食も作られるんですね」「ああ。洋食の方が好きだから頻度は多いが、和食も作る」 鷹宮は湊と目を合わせず、黙々と食事を続けながら答えた。 鷹宮は、食事中にあまり会話を好まない。肘をつくこともないし、いつも背筋をぴんと伸ばしている。箸の持ち方
コンコン。 扉をノックする音で、目が覚めた。 目に入る天井は真っ白で、見慣れないシーリングライトが視界の端にある。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。 ――ここは、どこだ。 そうだった。昨日、鷹宮の自宅に連れてこられ、ここで住み込みで働くことになったのだ。契約書にサインをし、この部屋を与えられたまま眠りに落ちた。 身体をゆっくりと起こし、窓に目をやる。カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。 部屋の扉が、音もなく開いた。「おはよう。よく眠れたか」 鷹宮が、部屋の中に入ってきた。 すでにスーツを着ている。ダークグレーのスーツに、白いシャツ。髪は整えられ、顔には疲れの色ひとつない。昨日と同じ、冷静で読めない目をしていた。「はい……。よく眠れました」 嘘ではなかった。 ネットカフェでの暮らしで、身体は悲鳴を上げていた。狭い空間で身を縮めて眠る日々。物音に怯えて何度も目が覚める夜。それが昨日は、一度も目覚めることなく朝を迎えた。 久しぶりに、ちゃんと眠れた。「そうか。それはよかった」 鷹宮は部屋の奥へ進み、カーテンを開けた。 眩しい光が、一気に部屋に流れ込んできた。 湊は思わず目を細めた。朝日をこんなに眩しいと感じたのは、いつぶりだろう。ネットカフェには窓がなかった。外の光を浴びることすら、久しく忘れていた。「シャワーを浴びて、身支度を整えてくれ。朝食は十分後に用意する」「……わかりました」 鷹宮は、それだけ言うと部屋を出ていった。 湊は、しばらくベッドの上で動けなかった。 起こされた。 時間を決められた。 当たり前のことなのに、妙に胸がざわついた。 ――いや、これは普通のことだ。 住み込みで働くのだから、生活のリズムを合わせるのは当然だ。雇用主の指示に従うのは、契約の一部だ。
食事を終えた湊は、窓辺に立っていた。 鷹宮の住む高級マンションは、湊がこれまで暮らしてきた場所とはまるで別世界だった。ベランダに面した窓は天井近くまで届く一枚ガラスで、都心のビル群を眼下に見下ろすことができる。床は艶やかなフローリングで、素足で歩くと、冷たくも温かくもない、ちょうどいい温度が伝わってくる。 空気が違う。匂いが違う。音が違う。 ついさっきまでいたネットカフェの消毒液の匂いも、路上の排気ガスの匂いも、ここにはない。代わりにあるのは、かすかなアロマの香りと、静けさだけだった。 まだ午前中だ。 ほんの数時間前まで、湊は路地裏で取り立て屋に追い詰められていた。それが今、こんな場所にいる。シャワーを浴びて、温かい食事を与えられて、清潔な服を着ている。 俺は今、どんな人の家にいるんだ。 現実感がない。さっきまでの出来事が、すべて夢だったのではないかと思える。でも、目の前の景色は本物だ。柔らかいソファも、磨かれた床も、窓の向こうに広がる青い空も、すべてが確かにここにある。 これほどの高層階に住める人間なのだ。 取り立て屋たちが「タカミヤホールディングス」という名前を聞いた瞬間、明らかに態度が変わった。湊はその会社の名前を聞いたことがなかったが、彼らが怯むほどの存在なのだろう。 窓辺に立って、景色をぼんやりと見つめていると、背後から声をかけられた。「朝倉くん」 振り返ると、鷹宮がタブレット端末を手に近づいてきた。 さっきシャワーを勧めてくれたとき、食事を用意してくれたとき、鷹宮はずっと穏やかだった。でも、その目は冷静で、感情が読めない。何を考えているのか、まったく分からなかった。「僕はもうすぐ仕事に行かなければならない。その前に少し話をしたいんだが、いいか」「……はい」 湊は頷いた。契約の話だろう。住み込みで働くと言われた以上、その条件を聞かなければならない。「座って」 鷹宮はソファに腰を下ろし、湊にも座るよう促した。 言われるまま、
ネットカフェの個室は、いつも同じ匂いがした。消毒液と、古いカーペットと、誰かが残していった汗の気配。 電源の入っていないモニターには、自分の顔が映っていた。頬がこけ、目の下には濃い影が落ち、髪は何日も洗っていないせいでべたりと額に張りついていた。三十歳を過ぎたばかりの顔には見えない。もっとずっと、疲れた顔をしている。 朝倉湊は、その顔から目を逸らした。 ここで寝泊まりするようになって、もう何日経っただろう。五日か、六日か。数えることをやめてから、時間の感覚がおかしくなっている。 財布を取り出した。中には千円札が一枚と、小銭が少し。今夜の延長料金を払えば、明日にはもう何も残らない。「……そろそろ、ここも出ていかなきゃ」 呟いた声は、自分でも驚くほど掠れていた。 行く当てなど、どこにもない。 友人には連絡できない。借金のことを話せば心配をかけるし、それ以上に、こんな惨めな姿を見られたくなかった。家族とはとっくに縁が切れている。実家に帰ることなど、最初から選択肢になかった。 どこに行けばいいのだろう。 思わず頭を抱えた。最悪、公園で野宿するか。でも今は二月だ。夜は凍えるように寒い。 ごろりと狭いスペースに寝転がって、天井を見上げた。蛍光灯の白い光が目に染みる。 考えても仕方がないことを、ぐるぐると考えてしまう。 どうしてこんなことになったのか。いつから道を間違えたのか。 でも、いくら考えても答えは出てこない。たぶん、逃げ道は最初からなかったのだ。 いや、違う。 全部、自分が悪い。 判断が甘かった。人を信じすぎた。すぐに相手の言葉を鵜呑みにして、疑うことを知らなかった。 だから、こんなことになっている。 もっとしっかり考えていれば、流されることなく、自分の頭で判断できていれば。 考えれば考えるほど、自分が情けなくなる。胸の奥がぎゅっと締めつけられて、息が苦しくなる。 帰る家もない。仕事もない







