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第三話 ここで暮らすということ

Author: 海野雫
last update Petsa ng paglalathala: 2026-02-03 19:00:57

 コンコン。

 扉をノックする音で、目が覚めた。

 目に入る天井は真っ白で、見慣れないシーリングライトが視界の端にある。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。

 ――ここは、どこだ。

 そうだった。昨日、鷹宮の自宅に連れてこられ、ここで住み込みで働くことになったのだ。契約書にサインをし、この部屋を与えられたまま眠りに落ちた。

 身体をゆっくりと起こし、窓に目をやる。カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。

 部屋の扉が、音もなく開いた。

「おはよう。よく眠れたか」

 鷹宮が、部屋の中に入ってきた。

 すでにスーツを着ている。ダークグレーのスーツに、白いシャツ。髪は整えられ、顔には疲れの色ひとつない。昨日と同じ、冷静で読めない目をしていた。

「はい……。よく眠れました」

 嘘ではなかった。

 ネットカフェでの暮らしで、身体は悲鳴を上げていた。狭い空間で身を縮めて眠る日々。物音に怯えて何度も目が覚める夜。それが昨日は、一度も目覚めることなく朝を迎えた。

 久しぶりに、ちゃんと眠れた。

「そうか。それはよかった」

 鷹宮は部屋の奥へ進み、カーテンを開けた。

 眩しい光が、一気に部屋に流れ込んできた。

 湊は思わず目を細めた。朝日をこんなに眩しいと感じたのは、いつぶりだろう。ネットカフェには窓がなかった。外の光を浴びることすら、久しく忘れていた。

「シャワーを浴びて、身支度を整えてくれ。朝食は十分後に用意する」

「……わかりました」

 鷹宮は、それだけ言うと部屋を出ていった。

 湊は、しばらくベッドの上で動けなかった。

 起こされた。

 時間を決められた。

 当たり前のことなのに、妙に胸がざわついた。

 ――いや、これは普通のことだ。

 住み込みで働くのだから、生活のリズムを合わせるのは当然だ。雇用主の指示に従うのは、契約の一部だ。

 そう自分に言い聞かせて、ベッドから足を下ろした。

 立ち上がると、身体が軽かった。

 いつもは節々が痛んで、起き上がるのにも時間がかかった。それが今日は、すっと立てる。ちゃんとしたベッドで眠るだけで、こんなにも違うのか。

 伸びをして、脱衣所へ向かった。

 扉を開けると、着替えが置いてあった。

 畳まれたシャツと、スラックス。シンプルだが、質のよさそうな生地。昨日着せられた服と同じ系統の、落ち着いた色合いだった。

 ――これを着ろ、ということか。

 自分で服を選ぶことは、許されていないらしい。

 でも、それは仕方がない。経営者のそばで働くのだから、それなりの身なりを求められるのは当然だ。自分で考える必要がないのは、むしろありがたいことかもしれない。

 そう思い込もうとした。

 シャワーを浴びながら、ぼんやりと考えた。

 朝にシャワーを浴びる習慣など、湊にはなかった。夜に入ることもあれば、入らない日もあった。それが今は、朝から身体を清潔にし、決められた服を着て、決められた時間に食事をする。

 生活が、整えられていく。

 誰かに。

 十分後という時間を意識しながら、急いでシャワーを済ませた。

 ダイニングに行くと、テーブルの上にはすでに朝食が並べられていた。

 色とりどりの野菜サラダに、ふわふわのオムレツ。野菜がたっぷり入ったスープもある。トーストされたバゲットには、こんがりとした焼き色がついていた。グラスにはオレンジジュース。

 まるで、ホテルの朝食のようだった。

「座って」

 すでに席についていた鷹宮が、湊に席に着くよう促した。

「これ……鷹宮さんが作ったんですか?」

「そうだが。何か問題でも?」

「いえ……すごいな、と思っただけで……」

 会社のトップが、自分で朝食を作る。それも、こんなに手の込んだものを。

「大したことじゃない。さあ、食べよう」

 鷹宮は背筋を伸ばし、両手を合わせた。小さく「いただきます」と言った。その所作は自然で、美しかった。

 湊は慌てて真似をした。手を合わせて、「いただきます」と呟く。

 スプーンを手に取り、スープをひとくち含んだ。

 野菜の優しい甘みが、口の中に広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。

「……おいしいです」

「口に合ったようでよかった」

 鷹宮は黙々と食事をしている。かなりの量があるのに、淀みなく平らげていく。

 湊も食べ進めようとしたが、半分ほどで手が止まった。

 胃が重い。

 ここ数日、まともに食べていなかったせいで、胃が縮んでいるのだろう。これ以上入れたら、戻してしまいそうだった。

 フォークを置いた。

「もういいのか」

 鷹宮の声に、湊は肩を竦めた。

「もう……お腹いっぱいで……」

 味はおいしい。でも、身体が受け付けない。申し訳なさで、顔が熱くなった。

「そうか」

 鷹宮は立ち上がり、キッチンへ入っていった。戻ってきたときには、手に小さなケースを持っていた。

「これを飲んで。足りない栄養素を補う」

 サプリメントだった。

 湊は素直に受け取り、水で流し込んだ。

「しばらくは、少量ずつ食べるようにしよう。胃腸が回復するまでは、僕が食事の量を調整する」

 ――食事の量を、調整する。

 その言葉が、頭の中で反響した。

 心配してくれているのだ。きっとそうだ。不摂生な生活をしていたのだから、身体を気遣ってくれているのだろう。

 そう思うと、恥ずかしさが込み上げてきた。鷹宮と自分の暮らしが、あまりにも違いすぎる。

 でも――今まで、湊の体調を心配してくれる人など、いなかった。

 元婚約者でさえ、湊の身体のことなど気にしていなかった。むしろ、無理をさせる側だった。

 それなのに、この人は。

 口元が、わずかに綻んだ。

「あの……コーヒーをいただけませんか?」

 湊はコーヒーが好きだった。特にダークローストの、深い苦みのある豆が好みだった。最近はネットカフェの薄いコーヒーしか飲んでいなかったから、急においしいコーヒーが恋しくなった。

「コーヒーはダメだ」

 鷹宮は、即答した。

「君は今、胃腸が弱っている。カフェインは刺激が強すぎる」

「……そうですか」

 住み込みで働かせてもらう身なのに、図々しいことを言ってしまった。恥ずかしくて、目を伏せた。

「君の好きそうな豆は揃えてあるから、身体が回復したら飲むといい」

 湊は、顔を上げた。

 ――好きそうな豆?

 心臓が、どくりと跳ねた。

 コーヒー豆の好みなんて、元婚約者にしか話したことがない。なぜ鷹宮が知っているのだ。いつ調べたのだ。どこまで把握しているのだ。

 口を開きかけたが、それより先に鷹宮が立ち上がった。

「今日は会社に行く。十分後に出るから、準備してくれ」

「……はい」

 湊は、頷くしかなかった。

 聞きたいことがあったのに、聞けなかった。

 聞いてはいけない気がした。

 鷹宮に促されて地下駐車場に降りると、一台の黒塗りの車が待機していた。昨日、湊をこのマンションに連れてきたときと同じ車だ。

「おはようございます」

 運転手が、後部座席のドアを開けた。鷹宮がするりと車内に滑り込んだ。

「朝倉くんは、僕の隣に」

 促されるまま、鷹宮の横に座った。ドアが閉まる。外の音が遠くなった。

 車が、静かに滑り出す。

 横目で鷹宮を見ると、タブレット端末で何かを確認している。今日の予定か、会議の資料か。真剣な目つきで画面を見つめている。

 今は話しかけない方がいい。

 そう判断して、湊は窓の外に目をやった。

 車がひしめき合う車道。いつもは歩道から、ただ車が行き交うのを眺めていた。それが今は、こんな高級車の中にいる。

 昨日まで路上で追われていた人間が、今日は革張りのシートに座っている。

 現実感がなかった。

 そんなことをぼんやりと考えていると、車が高層ビルの前に止まった。

 運転手がドアを開け、湊は慌てて降りた。

 見上げると、ガラス張りのビルが朝日を浴びてきらきらと輝いている。首が痛くなるほど高い。

 鷹宮が車を降り、迷いのない足取りでビルへ入っていく。湊も慌てて後を追った。

「社長、おはようございます」

 エントランスには受付カウンターがあり、女性が二人並んでいた。鷹宮の姿を見ると、すぐに立ち上がって頭を下げる。

「おはよう」

 鷹宮は表情を変えずに挨拶を返し、まっすぐエレベーターホールへ向かった。湊は受付の二人に軽く会釈をして、鷹宮の背中を追いかけた。

 視線を感じた。

 受付の女性たちが、湊を見ている。誰だろう、という目。社長の連れは何者なのか、という視線。

 居心地が悪かった。

 場違いだ、と思った。

 エレベーターで最上階まで上がると、鷹宮は廊下をまっすぐ奥へ進んでいった。この階には社長室と会議室しかないようで、他に人の気配がない。静まり返った空間に、二人の足音だけが響いた。

 「社長室」とプレートのかかった扉を、鷹宮が開けた。

 中は、二つの空間に分かれていた。手前に前室のようなスペースがあり、奥にガラス張りの大きな部屋が見える。奥が、鷹宮の執務室だろう。

 前室には、一人の男性がいた。

 三十代半ばくらいだろうか。オールバックに整えた髪と、銀縁の眼鏡。スーツは鷹宮と同じく高価そうで、隙のない着こなしをしている。

 鷹宮が入ってくると、男はすっと立ち上がり、深々と頭を下げた。

「おはようございます」

「おはよう」

 男が鷹宮に歩み寄った。

「社長、ご指示いただいた件については、調整済みです」

「わかった」

 鷹宮は短く答えると、湊の方を振り返った。

「ここでの仕事は、三崎に教えてもらってくれ」

 それだけ言って、鷹宮はガラス張りの執務室へ入っていった。

 残されたのは、湊と――三崎という男だけだった。

「初めまして。社長秘書をしています、三崎悠です」

 三崎が、丁寧な口調で名乗った。声は落ち着いていて、感情をあまり表に出さないタイプに見えた。

「あ、朝倉湊です。よろしくお願いします」

 三崎は自席から、一枚の紙と小さな箱を持ってきた。

「朝倉さんのお仕事は、この紙に書いてあるとおりです。それから、こちらが名刺です」

 湊は、差し出された名刺の箱を受け取った。

 開けてみる。

 「タカミヤホールディングス 社長室 朝倉湊」

 自分の名前が、印刷されていた。

 ――いつ用意したのだ。

 昨日の今日だ。契約したのは、ほんの昨日のことだ。

 なのに、名刺がもう用意されている。まるで、湊がここに来ることが、最初から決まっていたかのように。

「……ありがとうございます」

 声が震えていないか、自分でもわからなかった。

 三崎は、部屋の中を案内してくれた。どこに何があるか、どの棚にどの書類が入っているか。丁寧に、淡々と説明してくれる。

「何かあれば、私に聞いてください。基本的に、朝倉さんはこの部屋から出る仕事はないと思いますので」

 ――この部屋から出る仕事はない。

 その言葉が、妙に引っかかった。

 でも、新人なのだから当然か。いきなり外に出る仕事を任されるわけがない。

「わかりました」

 湊は頷いて、指定されたデスクに座った。

 三崎から手渡された書類に目を通す。そこに書かれているのは、ほとんどが雑務だった。書類整理、データ入力、スケジュール管理の補助。

 難しい仕事ではない。

 でも、仕事があるというだけで、胸が温かくなった。

 ここに、自分の居場所がある。

 やるべきことがある。

 それだけで、涙が出そうになった。

 最初に任されたのは、書類の仕分けだった。

 社長である鷹宮に見せるもの、秘書室で処理できるもの、他の部署に回すもの。わからないものは三崎に聞きながら、一枚一枚確認して分けていく。

 集中していると、時間があっという間に過ぎた。

「社長が目を通す分については、朝倉さんが社長室に持っていってください」

 三崎に言われて、湊は書類を胸に抱えた。

 ガラス張りの扉をノックする。中から、鷹宮がこちらを見ているのがわかった。

「入れ」

「失礼します」

 一礼して、中に足を踏み入れた。

 広い執務室だった。大きなデスクの向こうに、窓からの光が差し込んでいる。鷹宮は椅子に座ったまま、湊を見上げた。

「目を通していただく書類です」

 デスクの上に、書類を置いた。

 鷹宮は、その書類にちらりと目をやった。それから、湊の顔を見た。

「君が仕分けしたのか?」

「……はい」

「仕事を覚えるのが早いな。仕事ぶりもいい」

 心臓が、どくりと跳ねた。

 褒められた。

「ありがとうございます」

 頬に熱が籠るのがわかった。

 大したことはしていない。言われた通りに分けただけだ。でも、褒められると嬉しい。

 今まで、仕事で褒められたことなんてほとんどなかった。貶されることはあっても、認められることは少なかった。

「君は、こういう仕事に向いているみたいだ」

 鷹宮が、目を細めた。

 その視線に、どこか熱いものを感じた。見られている。観察されている。昨日からずっと、この人は湊のことを見ている。

 ――怖い。

 でも、嬉しい。

 ここが、自分の居場所になるのかもしれない。そう思うと、安堵が胸に広がった。

「引き続き、よろしく」

「はい」

 湊は一礼して、社長室を出た。

 前室に戻ると、三崎が湊に目をやった。

 眼鏡の奥の瞳が、何かを探るような光を帯びていた。口元は笑っていない。湊を見ているようで、その向こうにある何かを見ているような目だった。

 何か言いたげに見えたが、三崎は何も言わなかった。

 湊も、聞けなかった。

 その日の仕事を終えて、鷹宮のマンションに戻った。

 夕食も、鷹宮が用意してくれた。朝と同じく、胃に優しい献立だった。量は少なめで、消化のいいものばかり。湊の体調を考えて、すべて計算されているのだとわかった。

 ――管理されている。

 その言葉が、また頭をよぎった。

 でも、それは心配してくれているからだ。そうに決まっている。

 食事を終えて、湊はゲストルームに戻った。

 荷物の整理をしようと思った。とはいえ、荷物はリュックサック一つだ。着替えが二組と、空になった財布。そして――。

 リュックの底から、小さな箱と写真、それから書類の束を取り出した。

 指輪の箱。

 二人で撮った写真。

 借金の借用書。

 指輪の箱を、ぼんやりと見つめた。

 「結婚しよう」

 元婚約者に言われて、有頂天になった。海外で挙式を挙げようと約束して、彼が好みそうな指輪を選んで、渡す日を夢見ていた。

 結局、渡すことは叶わなかった。

 本気で好きだった。愛していた。この人以外はいらないと、心から思っていた。

 それなのに、彼は詐欺師だった。

 写真を見つめた。二人で笑っている。幸せそうに寄り添っている。この笑顔も、全部嘘だったのだろうか。

 目頭が、熱くなった。

 そのとき、部屋の扉がノックされた。

 返事をする前に扉が開くと、鷹宮が入ってきた。

「荷物の整理か」

 鷹宮の視線が、湊の手元に落ちた。指輪の箱と、写真。

 眉間に、皺が寄った。

「……それは何だ」

 低い声だった。穏やかさの奥に、何か別のものが混じっている。

「えっと……前の……」

「ああ、君を騙した男のものか」

 直接的な言い方だった。胸に、鋭いものが刺さる。

 鷹宮が、近づいてきた。湊の手から、写真を取り上げる。

「これは、もう不要なものだ」

「……え?」

「捨てろ」

 湊は、息を呑んだ。

「捨てる……?」

「君を傷つけた人間の痕跡を、いつまでも持っている必要はない」

 正論だった。

 正論なのに、従えなかった。

 騙されたとわかっている。裏切られたとわかっている。でも、彼との思い出は、確かに湊の中にあったものだ。嘘だったとしても、あの時間は本物だと信じていた。

 簡単に捨てられるものではなかった。

「……でも」

「でも?」

 鷹宮が、湊を見下ろした。

 冷たい目だった。感情が読めない、いつもの目。でも、その奥に何かが燃えているように見えた。

「君の過去も、僕は把握しておきたいと思っている」

 把握。

 また、その言葉だ。

「君がどんな人間に傷つけられたのか。どんな経験をしてきたのか。全部、知っておきたい」

 鷹宮の声は、低く静かだった。優しいようで、有無を言わせない響きがあった。

「それは……」

「君の過去に触れたものは、すべて僕が把握する。それが、君を守るということだ」

 守る。

 その言葉に、反論できなかった。

 鷹宮は、写真を手に持ったまま、湊を見つめていた。

「これは、僕が預かる。捨てるかどうかは、また考えよう」

 湊は、何も言えなかった。

 指輪の箱も、写真も、鷹宮の手に渡っていく。自分の過去が、少しずつ誰かのものになっていく。そんな感覚があった。

「君に必要なのは、過去ではない」

 鷹宮が、湊の顎に指をかけた。顔を上げさせられる。逃げられない距離で、目が合った。

「これからの生活だ。僕が用意する、新しい生活」

 その声は、優しかった。

 優しいのに――どこにも、逃げ場がなかった。

 湊は、鷹宮の目を見つめたまま、動けなくなっていた。

 助けられている。

 守られている。

 なのに、胸の奥がざわついて止まらなかった。

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