Mag-log inコンコン。
扉をノックする音で、目が覚めた。
目に入る天井は真っ白で、見慣れないシーリングライトが視界の端にある。一瞬、自分がどこにいるのかわからなかった。
――ここは、どこだ。
そうだった。昨日、鷹宮の自宅に連れてこられ、ここで住み込みで働くことになったのだ。契約書にサインをし、この部屋を与えられたまま眠りに落ちた。
身体をゆっくりと起こし、窓に目をやる。カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
部屋の扉が、音もなく開いた。
「おはよう。よく眠れたか」
鷹宮が、部屋の中に入ってきた。
すでにスーツを着ている。ダークグレーのスーツに、白いシャツ。髪は整えられ、顔には疲れの色ひとつない。昨日と同じ、冷静で読めない目をしていた。
「はい……。よく眠れました」
嘘ではなかった。
ネットカフェでの暮らしで、身体は悲鳴を上げていた。狭い空間で身を縮めて眠る日々。物音に怯えて何度も目が覚める夜。それが昨日は、一度も目覚めることなく朝を迎えた。
久しぶりに、ちゃんと眠れた。
「そうか。それはよかった」
鷹宮は部屋の奥へ進み、カーテンを開けた。
眩しい光が、一気に部屋に流れ込んできた。
湊は思わず目を細めた。朝日をこんなに眩しいと感じたのは、いつぶりだろう。ネットカフェには窓がなかった。外の光を浴びることすら、久しく忘れていた。
「シャワーを浴びて、身支度を整えてくれ。朝食は十分後に用意する」
「……わかりました」
鷹宮は、それだけ言うと部屋を出ていった。
湊は、しばらくベッドの上で動けなかった。
起こされた。
時間を決められた。
当たり前のことなのに、妙に胸がざわついた。
――いや、これは普通のことだ。
住み込みで働くのだから、生活のリズムを合わせるのは当然だ。雇用主の指示に従うのは、契約の一部だ。
そう自分に言い聞かせて、ベッドから足を下ろした。
立ち上がると、身体が軽かった。
いつもは節々が痛んで、起き上がるのにも時間がかかった。それが今日は、すっと立てる。ちゃんとしたベッドで眠るだけで、こんなにも違うのか。
伸びをして、脱衣所へ向かった。
扉を開けると、着替えが置いてあった。
畳まれたシャツと、スラックス。シンプルだが、質のよさそうな生地。昨日着せられた服と同じ系統の、落ち着いた色合いだった。
――これを着ろ、ということか。
自分で服を選ぶことは、許されていないらしい。
でも、それは仕方がない。経営者のそばで働くのだから、それなりの身なりを求められるのは当然だ。自分で考える必要がないのは、むしろありがたいことかもしれない。
そう思い込もうとした。
シャワーを浴びながら、ぼんやりと考えた。
朝にシャワーを浴びる習慣など、湊にはなかった。夜に入ることもあれば、入らない日もあった。それが今は、朝から身体を清潔にし、決められた服を着て、決められた時間に食事をする。
生活が、整えられていく。
誰かに。
十分後という時間を意識しながら、急いでシャワーを済ませた。
*
ダイニングに行くと、テーブルの上にはすでに朝食が並べられていた。
色とりどりの野菜サラダに、ふわふわのオムレツ。野菜がたっぷり入ったスープもある。トーストされたバゲットには、こんがりとした焼き色がついていた。グラスにはオレンジジュース。
まるで、ホテルの朝食のようだった。
「座って」
すでに席についていた鷹宮が、湊に席に着くよう促した。
「これ……鷹宮さんが作ったんですか?」
「そうだが。何か問題でも?」
「いえ……すごいな、と思っただけで……」
会社のトップが、自分で朝食を作る。それも、こんなに手の込んだものを。
「大したことじゃない。さあ、食べよう」
鷹宮は背筋を伸ばし、両手を合わせた。小さく「いただきます」と言った。その所作は自然で、美しかった。
湊は慌てて真似をした。手を合わせて、「いただきます」と呟く。
スプーンを手に取り、スープをひとくち含んだ。
野菜の優しい甘みが、口の中に広がった。温かさが、喉を通って胸に落ちていく。
「……おいしいです」
「口に合ったようでよかった」
鷹宮は黙々と食事をしている。かなりの量があるのに、淀みなく平らげていく。
湊も食べ進めようとしたが、半分ほどで手が止まった。
胃が重い。
ここ数日、まともに食べていなかったせいで、胃が縮んでいるのだろう。これ以上入れたら、戻してしまいそうだった。
フォークを置いた。
「もういいのか」
鷹宮の声に、湊は肩を竦めた。
「もう……お腹いっぱいで……」
味はおいしい。でも、身体が受け付けない。申し訳なさで、顔が熱くなった。
「そうか」
鷹宮は立ち上がり、キッチンへ入っていった。戻ってきたときには、手に小さなケースを持っていた。
「これを飲んで。足りない栄養素を補う」
サプリメントだった。
湊は素直に受け取り、水で流し込んだ。
「しばらくは、少量ずつ食べるようにしよう。胃腸が回復するまでは、僕が食事の量を調整する」
――食事の量を、調整する。
その言葉が、頭の中で反響した。
心配してくれているのだ。きっとそうだ。不摂生な生活をしていたのだから、身体を気遣ってくれているのだろう。
そう思うと、恥ずかしさが込み上げてきた。鷹宮と自分の暮らしが、あまりにも違いすぎる。
でも――今まで、湊の体調を心配してくれる人など、いなかった。
元婚約者でさえ、湊の身体のことなど気にしていなかった。むしろ、無理をさせる側だった。
それなのに、この人は。
口元が、わずかに綻んだ。
「あの……コーヒーをいただけませんか?」
湊はコーヒーが好きだった。特にダークローストの、深い苦みのある豆が好みだった。最近はネットカフェの薄いコーヒーしか飲んでいなかったから、急においしいコーヒーが恋しくなった。
「コーヒーはダメだ」
鷹宮は、即答した。
「君は今、胃腸が弱っている。カフェインは刺激が強すぎる」
「……そうですか」
住み込みで働かせてもらう身なのに、図々しいことを言ってしまった。恥ずかしくて、目を伏せた。
「君の好きそうな豆は揃えてあるから、身体が回復したら飲むといい」
湊は、顔を上げた。
――好きそうな豆?
心臓が、どくりと跳ねた。
コーヒー豆の好みなんて、元婚約者にしか話したことがない。なぜ鷹宮が知っているのだ。いつ調べたのだ。どこまで把握しているのだ。
口を開きかけたが、それより先に鷹宮が立ち上がった。
「今日は会社に行く。十分後に出るから、準備してくれ」
「……はい」
湊は、頷くしかなかった。
聞きたいことがあったのに、聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
*
鷹宮に促されて地下駐車場に降りると、一台の黒塗りの車が待機していた。昨日、湊をこのマンションに連れてきたときと同じ車だ。
「おはようございます」
運転手が、後部座席のドアを開けた。鷹宮がするりと車内に滑り込んだ。
「朝倉くんは、僕の隣に」
促されるまま、鷹宮の横に座った。ドアが閉まる。外の音が遠くなった。
車が、静かに滑り出す。
横目で鷹宮を見ると、タブレット端末で何かを確認している。今日の予定か、会議の資料か。真剣な目つきで画面を見つめている。
今は話しかけない方がいい。
そう判断して、湊は窓の外に目をやった。
車がひしめき合う車道。いつもは歩道から、ただ車が行き交うのを眺めていた。それが今は、こんな高級車の中にいる。
昨日まで路上で追われていた人間が、今日は革張りのシートに座っている。
現実感がなかった。
そんなことをぼんやりと考えていると、車が高層ビルの前に止まった。
運転手がドアを開け、湊は慌てて降りた。
見上げると、ガラス張りのビルが朝日を浴びてきらきらと輝いている。首が痛くなるほど高い。
鷹宮が車を降り、迷いのない足取りでビルへ入っていく。湊も慌てて後を追った。
「社長、おはようございます」
エントランスには受付カウンターがあり、女性が二人並んでいた。鷹宮の姿を見ると、すぐに立ち上がって頭を下げる。
「おはよう」
鷹宮は表情を変えずに挨拶を返し、まっすぐエレベーターホールへ向かった。湊は受付の二人に軽く会釈をして、鷹宮の背中を追いかけた。
視線を感じた。
受付の女性たちが、湊を見ている。誰だろう、という目。社長の連れは何者なのか、という視線。
居心地が悪かった。
場違いだ、と思った。
エレベーターで最上階まで上がると、鷹宮は廊下をまっすぐ奥へ進んでいった。この階には社長室と会議室しかないようで、他に人の気配がない。静まり返った空間に、二人の足音だけが響いた。
「社長室」とプレートのかかった扉を、鷹宮が開けた。
中は、二つの空間に分かれていた。手前に前室のようなスペースがあり、奥にガラス張りの大きな部屋が見える。奥が、鷹宮の執務室だろう。
前室には、一人の男性がいた。
三十代半ばくらいだろうか。オールバックに整えた髪と、銀縁の眼鏡。スーツは鷹宮と同じく高価そうで、隙のない着こなしをしている。
鷹宮が入ってくると、男はすっと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「おはようございます」
「おはよう」
男が鷹宮に歩み寄った。
「社長、ご指示いただいた件については、調整済みです」
「わかった」
鷹宮は短く答えると、湊の方を振り返った。
「ここでの仕事は、三崎に教えてもらってくれ」
それだけ言って、鷹宮はガラス張りの執務室へ入っていった。
残されたのは、湊と――三崎という男だけだった。
「初めまして。社長秘書をしています、三崎悠です」
三崎が、丁寧な口調で名乗った。声は落ち着いていて、感情をあまり表に出さないタイプに見えた。
「あ、朝倉湊です。よろしくお願いします」
三崎は自席から、一枚の紙と小さな箱を持ってきた。
「朝倉さんのお仕事は、この紙に書いてあるとおりです。それから、こちらが名刺です」
湊は、差し出された名刺の箱を受け取った。
開けてみる。
「タカミヤホールディングス 社長室 朝倉湊」
自分の名前が、印刷されていた。
――いつ用意したのだ。
昨日の今日だ。契約したのは、ほんの昨日のことだ。
なのに、名刺がもう用意されている。まるで、湊がここに来ることが、最初から決まっていたかのように。
「……ありがとうございます」
声が震えていないか、自分でもわからなかった。
三崎は、部屋の中を案内してくれた。どこに何があるか、どの棚にどの書類が入っているか。丁寧に、淡々と説明してくれる。
「何かあれば、私に聞いてください。基本的に、朝倉さんはこの部屋から出る仕事はないと思いますので」
――この部屋から出る仕事はない。
その言葉が、妙に引っかかった。
でも、新人なのだから当然か。いきなり外に出る仕事を任されるわけがない。
「わかりました」
湊は頷いて、指定されたデスクに座った。
三崎から手渡された書類に目を通す。そこに書かれているのは、ほとんどが雑務だった。書類整理、データ入力、スケジュール管理の補助。
難しい仕事ではない。
でも、仕事があるというだけで、胸が温かくなった。
ここに、自分の居場所がある。
やるべきことがある。
それだけで、涙が出そうになった。
*
最初に任されたのは、書類の仕分けだった。
社長である鷹宮に見せるもの、秘書室で処理できるもの、他の部署に回すもの。わからないものは三崎に聞きながら、一枚一枚確認して分けていく。
集中していると、時間があっという間に過ぎた。
「社長が目を通す分については、朝倉さんが社長室に持っていってください」
三崎に言われて、湊は書類を胸に抱えた。
ガラス張りの扉をノックする。中から、鷹宮がこちらを見ているのがわかった。
「入れ」
「失礼します」
一礼して、中に足を踏み入れた。
広い執務室だった。大きなデスクの向こうに、窓からの光が差し込んでいる。鷹宮は椅子に座ったまま、湊を見上げた。
「目を通していただく書類です」
デスクの上に、書類を置いた。
鷹宮は、その書類にちらりと目をやった。それから、湊の顔を見た。
「君が仕分けしたのか?」
「……はい」
「仕事を覚えるのが早いな。仕事ぶりもいい」
心臓が、どくりと跳ねた。
褒められた。
「ありがとうございます」
頬に熱が籠るのがわかった。
大したことはしていない。言われた通りに分けただけだ。でも、褒められると嬉しい。
今まで、仕事で褒められたことなんてほとんどなかった。貶されることはあっても、認められることは少なかった。
「君は、こういう仕事に向いているみたいだ」
鷹宮が、目を細めた。
その視線に、どこか熱いものを感じた。見られている。観察されている。昨日からずっと、この人は湊のことを見ている。
――怖い。
でも、嬉しい。
ここが、自分の居場所になるのかもしれない。そう思うと、安堵が胸に広がった。
「引き続き、よろしく」
「はい」
湊は一礼して、社長室を出た。
前室に戻ると、三崎が湊に目をやった。
眼鏡の奥の瞳が、何かを探るような光を帯びていた。口元は笑っていない。湊を見ているようで、その向こうにある何かを見ているような目だった。
何か言いたげに見えたが、三崎は何も言わなかった。
湊も、聞けなかった。
*
その日の仕事を終えて、鷹宮のマンションに戻った。
夕食も、鷹宮が用意してくれた。朝と同じく、胃に優しい献立だった。量は少なめで、消化のいいものばかり。湊の体調を考えて、すべて計算されているのだとわかった。
――管理されている。
その言葉が、また頭をよぎった。
でも、それは心配してくれているからだ。そうに決まっている。
食事を終えて、湊はゲストルームに戻った。
荷物の整理をしようと思った。とはいえ、荷物はリュックサック一つだ。着替えが二組と、空になった財布。そして――。
リュックの底から、小さな箱と写真、それから書類の束を取り出した。
指輪の箱。
二人で撮った写真。
借金の借用書。
指輪の箱を、ぼんやりと見つめた。
「結婚しよう」
元婚約者に言われて、有頂天になった。海外で挙式を挙げようと約束して、彼が好みそうな指輪を選んで、渡す日を夢見ていた。
結局、渡すことは叶わなかった。
本気で好きだった。愛していた。この人以外はいらないと、心から思っていた。
それなのに、彼は詐欺師だった。
写真を見つめた。二人で笑っている。幸せそうに寄り添っている。この笑顔も、全部嘘だったのだろうか。
目頭が、熱くなった。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
返事をする前に扉が開くと、鷹宮が入ってきた。
「荷物の整理か」
鷹宮の視線が、湊の手元に落ちた。指輪の箱と、写真。
眉間に、皺が寄った。
「……それは何だ」
低い声だった。穏やかさの奥に、何か別のものが混じっている。
「えっと……前の……」
「ああ、君を騙した男のものか」
直接的な言い方だった。胸に、鋭いものが刺さる。
鷹宮が、近づいてきた。湊の手から、写真を取り上げる。
「これは、もう不要なものだ」
「……え?」
「捨てろ」
湊は、息を呑んだ。
「捨てる……?」
「君を傷つけた人間の痕跡を、いつまでも持っている必要はない」
正論だった。
正論なのに、従えなかった。
騙されたとわかっている。裏切られたとわかっている。でも、彼との思い出は、確かに湊の中にあったものだ。嘘だったとしても、あの時間は本物だと信じていた。
簡単に捨てられるものではなかった。
「……でも」
「でも?」
鷹宮が、湊を見下ろした。
冷たい目だった。感情が読めない、いつもの目。でも、その奥に何かが燃えているように見えた。
「君の過去も、僕は把握しておきたいと思っている」
把握。
また、その言葉だ。
「君がどんな人間に傷つけられたのか。どんな経験をしてきたのか。全部、知っておきたい」
鷹宮の声は、低く静かだった。優しいようで、有無を言わせない響きがあった。
「それは……」
「君の過去に触れたものは、すべて僕が把握する。それが、君を守るということだ」
守る。
その言葉に、反論できなかった。
鷹宮は、写真を手に持ったまま、湊を見つめていた。
「これは、僕が預かる。捨てるかどうかは、また考えよう」
湊は、何も言えなかった。
指輪の箱も、写真も、鷹宮の手に渡っていく。自分の過去が、少しずつ誰かのものになっていく。そんな感覚があった。
「君に必要なのは、過去ではない」
鷹宮が、湊の顎に指をかけた。顔を上げさせられる。逃げられない距離で、目が合った。
「これからの生活だ。僕が用意する、新しい生活」
その声は、優しかった。
優しいのに――どこにも、逃げ場がなかった。
湊は、鷹宮の目を見つめたまま、動けなくなっていた。
助けられている。
守られている。
なのに、胸の奥がざわついて止まらなかった。
朝の光が、キッチンに差し込んでいた。 窓から見える空は、澄んだ青色だった。雲一つない、穏やかな朝。 初めて、雄一と並んでキッチンに立った。 手伝うといい出したものの、雄一のあまりの手際の良さに、その場に立ち尽くすしかなかった。逆に手出しすれば、邪魔になってしまう。 野菜を切る音が、リズミカルに響いている。フライパンが温まる音。卵を溶く音。 雄一の動きは、無駄がない。まるで、何年も同じ動作を繰り返してきたかのような自然さ。 湊は、その姿を見つめていた。 昨夜のことが、まだ頭に残っている。書斎での会話。雄一の過去。あの悲しそうな目。 そして、今朝の抱擁。 少しずつ、壁が溶けていく感覚があった。「ずっと思ってたんですけど、雄一さんっていつから自炊してるんですか?」 雄一は、手元から目線を外さずに答えた。「僕は大学時代にひとり暮らしをしていたからね。そのときからだ」「そうですか……。すごいですね」「大したことなどしていない。食べることは身体を作るもとになるから、きちんと整えたいだけだ」 確かに、いわれればその通りだ。人の身体は、食べたもので作られている。食材を選んで丁寧に調理すれば、中になにが入っているか自分でも把握できるし、健康維持に役立つ。 湊は、食べることに関して無頓着だった。食べられればいいと思っていたし、お金がなければ食べなければいい。そんなふうだったから、体調を壊しやすかったのかもしれない。 ネットカフェで暮らしていたころを思い出した。コンビニのおにぎりと、カップ麺。それが、湊の食事だった。 あのころの自分と、今の自分は、全く違う。 雄一と出会って、変わった。「雄一さんはすごいですね……。俺なんて自炊したことないから……」「これからやればいい。僕が教えるから」 雄一は包丁を握っていた手を休め、湊に目を向けた。口角が少し上がって
湊は、身体中が痛くて目が覚めた。 まるでネットカフェで寝起きしていたころのように、身体がだるい。首が凝っている。腰も痛い。全身が軋んでいる。 部屋の中は薄暗く、夜明け前だということが分かった。 薄暗い中、目を凝らして天井を見つめた。そこは、いつも見ているゲストルームではなかった。 昨日、雄一の書斎で身体を合わせたのだった。そのままソファで寝てしまったらしい。 記憶が、ゆっくりと戻ってくる。 雄一の過去を聞いた。母親と父親を亡くし、義母と弟にすべてを奪われ、恋人まで奪われたという話だ。 だから雄一は、大切なものを囲い込もうとするのだ。 失う前に、手元に置いておきたいのだ。 その気持ちが、痛いほど分かった。 雄一の姿を探すと、湊の足元のソファに背中を預けて、床に座ったまま眠っていた。 そんな姿勢だと、身体が痛くなるだろうに。 ベッドもソファもあるのに、なぜ床に座って寝ているのだろう。 湊は、その姿を見て、胸が締め付けられた。 熱烈に肌を合わせたのが嘘のような距離感だった。 昨夜は、あんなに近かったのに。あんなに熱く繋がったのに。 今は、まるで別々の世界にいるようだ。 それはきっと、雄一の心の中にある不安を表しているのだろう。 雄一は、常に不安なのだ。 義母と弟に大切なものを奪われ続けてきた。だからこそ、大切なものを囲い込もうとする。 でも同時に、どんなに囲っても、いつかは奪われると思っている。 どんなに愛しても、いつかは去っていくと思っている。 だから、近づきすぎることを恐れている。 けれど今、湊は雄一の腕の中にいない。 雄一ががんじがらめに縛りつけていたものが、少しゆるんだのだと感じた。 以前の雄一なら、湊を腕の中に閉じ込めて眠っていただろう。離さないように、逃げられないように。 でも今は、床に座って、湊から少し離れた場所で眠っている。
ダイニングテーブルの片隅には、ロジカルシンキングに関する本が積み上げられていた。 雄一の役に立ちたくて、ロジカルシンキングを勉強したいと思った。まずは論理的な考え方を身につける必要があると感じたからだ。「俺、考えをまとめるのが苦手で……」 雄一にそう溢すと、ロジカルシンキングを学ぶことを勧められた。「それなら、僕も何冊か本を持っている」 そういって、書斎から本を持ってきてくれた。社長は、自分の事業だけでなく幅広い知識が必要だと考えており、日頃から学んでいるのだという。 最初は、帰納法や演繹法などといわれてもちんぷんかんぷんだった。でも、本を読み進めていくうちに、なんだか面白くなってきた。 今まで、頭の中でどのような処理が行われているかなんて、考えもしなかった。脳の働きってすごいな、と感心しながら学んでいるうちに、自分が今どんな思考をしているのかがわかるようになってきた。それがとても面白い。 湊は、ソファに座っている雄一に目を向けた。 彼は真剣にタブレット端末を見ている。最近知ったのだが、雄一は読書家らしい。電子書籍で本を読み、新聞にもオンラインで目を通しているといっていた。その中には業界紙も含まれているそうだ。「紙は場所を取るからな」 その言葉を聞くと、やはり雄一は効率的だと思う。 そんな雄一が、眉間に皺を寄せながらタブレット端末を見つめている。きっとなにか気になる記事があったのだろう。その目は、とても真剣だった。 以前だったら、こんな自由な時間を持てるなんて思わなかっただろう。常に雄一に監視されていると思い込んでいたから、なにをするにもびくびくしていた。 でも今は、違う。 幸せだな。 湊は口元を緩めて、再び手元の本に目を落とした。* 湊は、全ての本を読み終えて、伸びをした。 ソファに目を向けると、雄一はそこにいなかった。「雄一さん?」 声をかけてみたが、返事はない。トイレへ行っているのかと思って見に
目が覚めると、真っ白な天井が目に入った。 朝のやさしい光が、カーテンの隙間から漏れている。 何度も、この部屋で目を覚ました。自由がなくて息苦しくなり、逃げ出したこともある。けれど、結局はまた戻ってきた。 以前は息苦しさを感じていたのに、嘘のように今はそれがない。 それはきっと、昨日「自由」を得たからだ。いや、「自由」という名の囲いの中にいると知った、といったほうがいいのかもしれない。 もうこれからは、怯えて生きる必要などない。借金取りに追われることも、相馬のことを思い出して悲しむこともない。 過去は、処理された。 その事実が、湊の心を軽くしていた。 ベッドから身体を起こした。 あたりは静寂に包まれていた。部屋はしんと静まり返り、なんとなく寂しく、冷たく感じた。まるで氷の中に閉じ込められたような感覚だった。 以前なら、この静けさが怖かった。閉じ込められている、と感じていた。 でも今は、違う。 雄一の「君は自由になれる」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 本当に湊は自由になれるのだろうか。この囲われた生活の中で、自由を手に入れられるのだろうか。 それは、わからない。 けれど、雄一に守られていることだけは確かだった。 守られている。その言葉を、湊は初めて素直に受け入れることができた。 以前は「囲われている」と感じていた。縛られている、閉じ込められている、と。 でも今は、少し違う見方ができるようになっていた。 雄一は、湊を傷つけようとしているわけではない。湊を苦しめようとしているわけではない。 ただ、不器用なのだ。愛し方が、わからないのだ。 表情が乏しくて、言葉が少なくて、感情の伝え方を知らない人。 でも、その奥には、本物の愛情がある。湊を大切に思う気持ちがある。 それを、湊はようやく理解し始めていた。 守られながら、なにかできるかもしれない。 そう思った瞬間、心が
もうすっかり、雄一のそばでの生活にも慣れてきた。 最初はなにもせずに、ただそばにいるだけだった。雄一についていって、会議を聞いて、商談を見て、移動して、帰ってくる。それだけの毎日。 でも、湊の性格上、じっとしているのが苦手だ。なにかしていないと落ち着かない。手持ち無沙汰でいると、自分が価値のない存在に思えてくる。 だから、雄一に頼み込んだ。「なにか、仕事をさせてください」 最初は断られた。「君はなにもしなくていい」と。でも、湊は引き下がらなかった。何度も、何度も頼んだ。 そして、ようやく許可が出た。 職場の執務室で、お茶を出したり書類を整理したりする雑務。本当の秘書の仕事ではないけれど、なにもしないよりはずっとマシだった。「仕方ないな」 雄一はそういった。口調は呆れたようなのに、表情はどこか嬉しそうだった。 それも、他人が見てもまったくわからないほどの変化だった。少しだけ目尻が下がって、口角が上がっている。湊だから気づける、微かな変化。 雄一は、湊が出奔する以前よりも表情が豊かになったように感じる。こうやって嬉しそうな顔をしてくれる。困った顔をする。笑う。 もちろん、他人にはわからないほどの表情の変化だと思う。でも、湊にはわかる。 それが、少し嬉しかった。 執務室での仕事は、雑用でも任せてもらえるからいい。 お茶を入れて、「ありがとう」といわれる。書類を整理して、「助かった」といわれる。小さなことだけど、役に立っているという実感がある。 三崎とも、少しずつ話すようになった。雄一が三崎に対して嫉妬したことがあることから、最初は警戒していたけれど、三崎は意外と親切だった。仕事のやり方を教えてくれたり、わからないことを説明してくれたり。 ただ、時々、三崎の目が鋭くなることがあった。なにかを観察しているような、品定めしているような目。 それがなにを意味するのか、湊にはわからなかった。 執務室での仕事は良かったけれど、外出だけは苦痛だった。 取引先との商
雄一のもとに戻って、朝を迎えた。 いつもと同じ時間に起きてシャワーを浴び、雄一の作った朝食を食べた。前と変わらない朝だった。 テーブルには、完璧に盛り付けられた和食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯。どれも美味しそうで、栄養バランスも考えられていた。 雄一は、湊のためにこれを作ってくれた。毎朝、湊より早く起きて、黙々と準備をしてくれている。 そのことに、感謝すべきなのだろう。でも、湊の心は複雑だった。 自分ではなにもできない。なにもさせてもらえない。ただ、用意されたものを受け取るだけ。 それが、湊の役割だった。「今日は僕と一緒に外回りについてきてくれ」 今までは、平日であっても「今日の予定は?」と聞かれていた。秘書の仕事を告げると、雄一は満足げに頷いていた。 しかし今日は、予定を聞かれることなく、雄一から今日の予定を告げられた。 湊の予定ではなく、雄一の予定に組み込まれている。湊は雄一のスケジュールの一部になっていた。「分かりました」 湊は、頷くしかなかった。「必要なものがあれば僕が買うから、言って」「今のところ、特にありません」「そうか」 雄一は頷いた。口元がなんとなく緩んでいるのは、湊がここにいるからだろうか。 湊がそばにいるだけで、うれしいのだろうか。 そう思うと、複雑な気持ちになった。うれしいような、苦しいような。「そうだ。これ」 雄一が、スマートフォンを取り出した。 湊が逃げたときに、この部屋に置いていったものだ。位置情報を追跡されないように、わざと置いていった。「ここに忘れていただろう? 初期化しておいたから」「えっ?」 その言葉に、ぞっとした。 初期化。つまり、中身は全て消えたということだ。連絡先も、メッセージの履歴も、写真も、アプリも。全て、なくなった。 西村の連絡先も。山田の連絡先も。外の世界との繋がりが、全て消えた。